L'histoire

僕が好きだった人たちについて書きます。僕の勝手な片思いなのだけど。

スケベ禿げおやじ

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カエサル

 第1回三頭政治の一人。後にディクタトル(終身独裁官)となり帝政ローマの基礎を作る。シーザーサラダの発案者(ではない)。

 

 ローマ市民に人気があった理由は、カエサルの気前の良さだったそう。大々的に剣奴の試合を開催し平民たちを招待したり、食事や酒を振舞った。気さくな性格で、誰からも好かれたという。英雄というイメージから意外なのは、彼のニックネームだ。「スケベ禿げおやじ」。

 

 独裁者となったカエサルが暗殺されたときの、「ブルートゥス、お前もか」という台詞は有名だけど、これには単に目をかけていたブルートゥスに裏切られたという以上の意味があったかもしれない。というのも、カエサルはかつて(25年も前)ブルートゥスの母親と付き合っていたのだ。ブルートゥスはカエサルの実子だったという説もある。

 

 52歳の時、ライバルのポンペイウスを討つべくエジプトに行った際、21歳のクレオパトラにメロメロになり、カエサリオンという子供をもうけている。絨毯に簀巻きになってカエサルのもとを訪れたクレオパトラの演出も素晴らしかったのだろうけど、ベースが「スケベ」なので、カエサルを手玉に取ることなど、クレオパトラには朝飯前のことだったろう。

 

 「スケベ禿げおやじ」と平民たちに親近感を持ってあだ名されるカエサルにとって、こうした女性関係は、氷山の一角だったに違いない。

 

 ルビコン川を渡って、ローマに進軍するときの「賽は投げられた」も有名な台詞。そのときルビコン川には、産卵で戻ってきた鮭が群れをなしていたという。「魚が跳ねたぞ」という台詞が、カエサルのものだったかどうかは定かではないが、「跳躍」=salaというラテン語が、salmonの語源になっているそう。

 

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酒中の仙人

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李白

 

 「詩仙」と称えられた中国唐代の天才詩人。玄宗皇帝のお気に入りでもあったそう。酒をこよなく愛したことでも有名で、同時代のもうひとりの詩人・杜甫李白を評して「酒を一斗飲めば、詩が百も出てくる。自らを酒中の仙人と称している」という意味の詩を残している。

 

 船上で泥酔し、水面に映る月を捕らえようとして川に落ちて溺死したというエピソードも、よく知られた李白の最期の場面だけど、これはどうやら作り話で、実際には病死だったらしい。こうした伝説ができるほど、李白の生涯は、酒とともにあったということだろう。

 

 「酒を愛する」という表現には、大酒飲みの奔放さや磊落ぶりが感じられ、酔人に対する周囲の寛容も窺われる。しかしこれが「アルコール依存」となると、社会生活に問題が生じ、ときに迷惑がられ、場合によっては、専門家の治療を要するもので、寛容には扱われにくい。

 

 乱暴な言い方かもしれないけれど、酒を愛する人の多くは、アルコール依存症かその予備軍だと僕は思っている。だとすると、寛容と不寛容の線引きはどのようになされているのだろう?

 

 いや、線引きなどないのだ。あるとしたら、それは層の分厚いグレイゾーン。アルコール症スクリーニングテストというのがあるみたいだけど、これで「依存症」と判定されても、昨日までと同じように、酒を愛する陽気なお父さんでい続けることもできるのだ。

 

 李白先生も現代ならアルコール依存症と診断されたかもしれない。だとしても飲酒の習慣は止めないだろうけど。

 

 李白は、玄宗皇帝によって長安から追放される。酒が原因だった。ある宴席で泥酔した李白は、皇帝側近の宦官に自分の靴を脱がせた。この態度が、宦官の恨みを買って、讒言されたのである。

 

 靴が、相当臭かったのであろう。

 

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断捨離

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ディオゲネス

 

 今夏、これから本格的な暑さが始まるというころ、僕の部屋のエアコンが壊れてしまった。取り換えは、もちろん業者に任せるとして、僕にとっての一大事業は、取り換えのための下準備だった。エアコンの周辺を空けなければならないので、ベッドをどかしたり、そこから派生して、本や雑誌を整理したり、結果、部屋中を大掃除する羽目になった。

 

 大掃除で知らされたことは、長いあいだ、僕は大量のゴミと暮らしていたということだ。「断捨離」という言葉が、一時流行っていたけれど、僕は生まれて初めて、「捨てる」という行為の楽しさを知った。身軽になっていく爽快さ、心が整理されるような充実感さえも「捨てる」という単純ないとなみで味わえるというのは、不思議でもある。

 

 ディオゲネスは、生活に必要最低限のものを頭陀袋に入れて、道端の酒樽で暮らしていた。ソクラテスの孫弟子で「徳」を重んじ、心の平安のためには財産や家族でさえ邪魔なものだと考えたらしい。執着を捨てるということなら、バラモン仏教の修行に似ている気もするが、僕がディオゲネスを好きなのは、彼が快楽に奔放だったというところ。

 

 快楽に奔放だったという言い方は、研究者なんかからは反論されるかもしれないけれど、僕がそう感じたのは、ギリシア一の高級娼婦フリュネの客だったという逸話による。アフロディーテとも称えられたフリュネは、客への請求額を自分の言い値で決めていた。気に入らない男には、城も買えるほどの法外な金を要求したりもした。そんなフリュネがディオゲネスを客としてとるときは、金を請求しなかったというのだ。彼女が、それほどにディオゲネスの人格を尊敬していたというエピソード。

 

 皮肉屋で、屁理屈ならプラトンにさえ負けないというほどの弁舌家でもあったディオゲネス。ある日、手掬いで水を飲んでいた少年を見て、激しく敗北感を味わったそう。というのも、ディオゲネスの頭陀袋の中には、水飲み用のカップが入っていたのだ。急いでカップを捨てたという。

 

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最期のことば

 

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マリー・アントワネット> 

 辞世の句とか、最期のことばというのは、その人の人生を総括するもの・・・と考えるのは、ちょっとロマンテックに過ぎるかも知れない。

 

 僕の祖父は、僕が、「今日はデイケアの人が来る日だよ」と伝えに行くと、「じゃあ、髭でも剃るか」と立ち上がり、その数分後、浴室で倒れてそのまま逝ってしまった。「髭でも剃るか」という、このごく日常のフレーズに、なにか象徴的なものを見出すことも出来るかもしれないけれど、かなり無理やりという気がする。

 

 この祖父には弟がいて、その人はすでに数年前に亡くなっている。この人の辞世のことばは、「アンパン」であった。病院で家族に看取られて逝ったそうだけど、その深遠な意味を理解する者はいなかった。好物だったか?・・・はて?という短いディスカッションの後、せめてアンパンを柩に入れてあげよう、と、まとまったらしい。

 

 マリー・アントワネットは、フランス中の憎しみを買って、ギロチン刑に処された、あまりにも有名な王妃。パリ市民にとってこの公開処刑は、最高の見世物だったことだろう。アントワネット妃の贅沢は、たしかに目に余るものがあったようだし、そのことに彼女自身、自覚的ではなかった。それにしても、彼女一人がパリ市民の憎しみをこれほど一身に受けるというのは、僕には、かなり理不尽な気がする。流言飛語による風評被害も多分にあったろうと思う。

 

 オーストリア・ハプスブルク家というお金持ちの出自と、彼女が輿入れした時期のヴェルサイユ宮殿の華やかな風潮が、いかにも自然にマリー・アントワネットという女性を作り出したという印象もある。

 

 ギロチン台に上ったマリー・アントワネットは、死刑執行人の足を踏んでしまった。「ごめんあそばせ。でもわざとじゃありませんのよ」・・・これが生前マリー・アントワネットが口にした最期のことばとなったそう。

 

 蜂の一刺しともならないけれど、アントワネットはわざと執行人の足を踏んだのだろうか?これについては、僕はNOだと思っている。浪費家で世間知らずだとしても、マリーアントワネットには母マリア・テレジアから受け継いだ威厳が染み付いていると感じるからだ。死に臨んで執行人の足をわざと踏むという行動は、その威厳とは相容れないと思う。

 

 ところで池田理代子氏の『ベルサイユのばら』の「ばら」とは、オスカル・フランソワのことだろうと、僕は長年思い込んでいたのだけれど、あの物語の主人公はあくまでマリー・アントワネットなのだと作者自身が語っている。

 

 肖像画は、ばらの花を手にしてるね。

 

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無知の知

 

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ソクラテス

 ペロポネソス戦争ソクラテスの人生は、一部重なっている。ソクラテス自身、重装歩兵として、この戦争に参加していたのだ。ヘルメットをかぶり槍を持つソクラテスの姿は、イメージとしてしっくりこないけど、アテナイ市民としてじっとしておれなかったのだろう。

 

 しかしそのアテナイに、ソクラテスは殺されることとなる。世間で名を馳せるソフィストたちを対話で次々とやっつけるものだから、とうとう有力者に睨まれる。有力者に睨まれると、なかなか勝ち目はないな。僕は自分自身の拙い経験のなかでこれを実感する。

 

 直接的な罪状は、「アテナイの国が信奉する神々を信じず、青年たちを堕落させた」というもの。言いがかりも甚だしいのだが、無理が通れば道理引っ込むというやり口も、有力者がよく使う手だ。結果、死刑判決が下るのだけど、逃げようと思えば、それも十分可能だったらしい。弟子たちは、毎日牢獄にソクラテスを訪ねていて、牢獄の監視はけっこういい加減だったようだ。

 

 しかし逃亡はソクラテスの信条に反するというので、実現しなかった。自ら毒杯を仰ぐ方を選択する。こういうことが本当に出来てしまうものか?ハメられた裁判じゃないか。従う価値などないし、まして命を差し出すレベルのことではない。「悪法も法」ではあるだろうけど、一度くらい信条を曲げてもいいだろうと、僕なら考えてしまう。しかしまぁ、こういうところが僕という人間の卑しさなのだろうと、一方では思う。「一度くらい」と考える人間に、一度だけで済むことなど決して無いものだ。

 

 だいぶ前に、資格試験を目指して必死に勉強していた時期があるのだけど、頑張れば頑張るほど、自分の理解力の低さが自覚され、そういう自分と毎日向き合うことに嫌気がさしたことがあった。そんな時、ソクラテスの「無知の知」という言葉が浮かび、自分はいまソクラテスの境地にいる・・・と思ったものだった。

 

 今から思えば、ただの自己憐憫で、資格試験にもまんまと落ちた。

                  

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暗示

 

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ペリクレス> 

 サラミス海戦でペルシャを破ったアテナイは、ギリシアのポリスの中で頭一つ抜けたみたいだ。また攻めて来るかもしれないペルシャ対策に、ギリシア諸ポリスは、デロス同盟を結んだ。盟主となったのはもちろんアテナイで、アテナイは、ますます勢いを増す。

 

 さらに国内的には、貴族支配の体制から民衆が実権をつかみ取る。フランス革命の話ではない、紀元前5世紀の出来事なのだ。これも海戦に参加した下層市民の主張が通ったということだから、サラミス海戦は、国内・国外ともに、とても意義深いものだった。

 

 紀元前460年頃には、アテナイに民会が成立する。

 

 18歳以上の男子市民なら財産に関係なく民会に参加することができた。女子には参政権はなく、奴隷は市民とカウントされない。奴隷は全人口30万人のうち11万人を占めていた。

 

 驚くのは、政府の公職がくじ引きで選ばれていたということだ。平等ということでは徹底しているけど(あくまで男子市民の範囲で)、適性や能力はどうでもよかったのだろうか?僕が、くじ引きで裁判官の職に当たったなら、あいつとあいつは死刑だな、と恣意的に個人的恨みで裁いたりもするだろう・・・

 

 ペリクレスが政治の表舞台に現れたのは、このころだった。

 

 ペリクレスは軍人で、15年連続将軍職に就いていた。公職のなかでも将軍だけは、くじ引きではなく選挙で選ばれていたのだ。戦争ばかりは、伊達や酔狂ではすまされない。

 

 さらに彼は、演説がとても上手かった。格調の高いペリクレスの演説は、現代の欧米の議会にも影響を与えているそう。ペリクレスは、民主制アテナイのなかでリーダー的存在となっていった。

 

 有名なパルテノン神殿が完成したのも、ペリクレス時代だった。彼はデロス同盟で集めていた軍資金をアテナイの建設資金等に流用した。国内的には喜ばれるだろうけど、スパルタをはじめとする他のポリスはもちろん面白くない。そしてついにアテナイ派とスパルタ派が戦うペロポネソス戦争が勃発する。

 

 受験生のころ、変わり者の家庭教師が、「ペリクレス時代のペロポネソス戦争」という早口言葉を、ペペロンチーノを食べる際には「いただきます」の代わりに3回言うというゲームを考案し、僕はチャレンジさせられることとなった。なぜペペロンチーノかというと、「ぺ」が2つ重なっているので、ペリクレスの「ぺ」と、ペロポネソスの「ぺ」が連想されやすいとのことだった。しかしこの作戦は、見事に失敗した。ペペロンチーノが献立に出てくるということが、受験本番まで一度もなかったのだ。

 

 いや、今から思えば、失敗とは言えないかもしれない・・・ペペロンチーノがテーブルに並ばない都度、僕はほくそ笑みながら「また作戦失敗だな」とつぶやいていたのだ。つまり毎食ごとに僕の脳裏にはペペロンチーノが浮かんでいて、それとセットで「ペリクレス時代のペロポネソス戦争」という早口言葉も、毎回思い出されていたのだろう。その証拠に、受験から何年も経った今でも、どうでもいいこのフレーズを、僕は、憶えているのである。 

 

 ペリクレスは、この戦争のさなか戦闘ではなく疫病で死んでしまった。天然痘が流行し、アテナイ市内では30万人のうち10万人以上が死んだという。

 

 ペリクレス亡き後、アテナイにまともなリーダーシップを取れる政治家は現れず、ついにアテナイはスパルタに敗れてしまう。

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「王さまの耳はロバの耳」ではないのだ

 

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<ダレイオス1世> 

 アケメネス朝ペルシャ3代目の王様。アケメネス朝は、古代オリエントに広大な領土を有したのだけれど、その原動力となったのは<馬>だった。アケメネス朝が発祥したとされるイラン高原のバーサル地方では、古代の最良・最高種とされるネサイオン馬が育成され、乗馬はペルシャ人にとって教育の中心的課題だったそうだ。ダレイオス一世自身、みずからが優秀な騎兵であることを第一に誇りに思っていた。

 

 そもそも「馬に乗る」という発想が、人類の歴史でどのように生まれたのか?というのも興味あるところだけど、この点はまた別の機会に調べるとして、ともかくペルシャ人はこの乗馬の技術によって、移動と通信に優れ、周辺国を次々と征服したのだった。

 

 征服といっても、アケメネス朝の支配は、かなり寛大で、貢納と軍役さえ果たせば、あとは好きにしていいよ、という感じだった。それまでの伝統や言語を被征服国に許容した。宗教にも寛容だった。ペルシャ人の宗教はゾロアスター教。アケメネス朝が成立した紀元前6世紀には、ほとんどのペルシャ人がこの宗教を信奉していたと言われる。しかし宗教についても自分たちは自分たち、よそはよそみたいな態度が窺える。たとえばペルシャが新バビロニアを滅ぼしたとき、バビロニアに捕らえられていたヘブライ人(バビロン捕囚)を解放してあげた。自由の身になったヘブライ人たちは、何を置いても、まずユダヤ教の神殿を建設したのだけど、ペルシャ側は「別にいいよ」という感じ。この緩さも、帝国拡大の要因だったろう。

 

 広い領土に目を行き届かせるために、ダレイオス一世は国土を20の州に分け、各州に総督を置いた。その総督が勝手な政治をして民衆を苦しめることがないよう、「王の目」という監視役を設けた。これは公然と監査や検査をする機関。さらに密偵として「王の耳」を送り込み、秘密裏に総督を監視するシステムも作られていた。これはなかなか怖いシステムである。総督は、知らず知らず「王の耳」によって評価付けされていたのである。

 

 この「王の耳」のノウハウは、現代のミシュランガイドの格付けに受け継がれている。

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