酒中の仙人
<李白>
「詩仙」と称えられた中国唐代の天才詩人。玄宗皇帝のお気に入りでもあったそう。酒をこよなく愛したことでも有名で、同時代のもうひとりの詩人・杜甫は李白を評して「酒を一斗飲めば、詩が百も出てくる。自らを酒中の仙人と称している」という意味の詩を残している。
船上で泥酔し、水面に映る月を捕らえようとして川に落ちて溺死したというエピソードも、よく知られた李白の最期の場面だけど、これはどうやら作り話で、実際には病死だったらしい。こうした伝説ができるほど、李白の生涯は、酒とともにあったということだろう。
「酒を愛する」という表現には、大酒飲みの奔放さや磊落ぶりが感じられ、酔人に対する周囲の寛容も窺われる。しかしこれが「アルコール依存」となると、社会生活に問題が生じ、ときに迷惑がられ、場合によっては、専門家の治療を要するもので、寛容には扱われにくい。
乱暴な言い方かもしれないけれど、酒を愛する人の多くは、アルコール依存症かその予備軍だと僕は思っている。だとすると、寛容と不寛容の線引きはどのようになされているのだろう?
いや、線引きなどないのだ。あるとしたら、それは層の分厚いグレイゾーン。アルコール症スクリーニングテストというのがあるみたいだけど、これで「依存症」と判定されても、昨日までと同じように、酒を愛する陽気なお父さんでい続けることもできるのだ。
李白先生も現代ならアルコール依存症と診断されたかもしれない。だとしても飲酒の習慣は止めないだろうけど。
李白は、玄宗皇帝によって長安から追放される。酒が原因だった。ある宴席で泥酔した李白は、皇帝側近の宦官に自分の靴を脱がせた。この態度が、宦官の恨みを買って、讒言されたのである。
靴が、相当臭かったのであろう。